EPILOG
【エピログ】
ある日チャモロ湾岸を散歩中、「博士様!」と呼ばれ、誰のことかとキョロキョロ見回していると、村の酋長さんでした。
「日本軍の破竹の進撃を聞いて、私の家でも赤飯を炊いて、皆で万歳を三唱して祝ったものですよ」と日本語で在りし日の懐かしい思い出のように語ってくれました。
あるときは白髪の元気なおばあさんが「確かに、日本時代は兵隊さんによく殴られましたよ。私達だけじゃなく日本人も。でも、今と違ってもっと全てにきちんきちんとしていましたよ」と流暢な日本語で話してくれました。
アレックスおじいさんも「今は、怠け者が増えてきたよ。昔はもっとよく働いていて、裏山の方では米も作っていたけどね」と言っていました。
こんな話を聞いていると 日本の統治時代を経験したヤップの人達の中には日本への郷愁を抱いている人がいまだにけっこういるのはまちがいありません。
1987年ミクロネシアの歴史を題材にしたミクロネシア連邦政府発行の4枚の切手があります。
(*手元に現在ないのが見せられないのが残念ですが、、)
その切手に描かれているのは
1.スぺイン時代: スペイン国旗とキリスト教宣教師
2.ドイツ時代: 当時のドイツ国旗と<COPRA>コプラ産業
3.日本時代: 日の丸と学校授業風景
4.アメリカ時代: 星条旗とSTORE
それぞれ統治時代の特徴を表しており、興味深いです。
ヤップ政府の役人の言うように ヤップはミクロネシアの他の島の二の舞は踏むまいとして、慎重に将来を模索している様子は確かに滞在中 感じましたが、、、
ミクロネシア一番と言われるアルコール消費量(そういえば村に行ってもビールの空き缶が散らばっているのをよく見ました)そしてこれまであまりなかった殺人、強姦等の犯罪が増えているが故に 日本の統治時代を経験した人達には「日本への郷愁」が一層つのるのかもしれません。
【チャモロ湾】
真ん中遠くの方に見える橋が当時ヤップ橋と呼ばれていた。
【統治時代のチャモロ湾岸集落】 赤星さんの話:日本統治時代 この湾岸に沿って日本人集落が賑わいを見せたと言う。赤星さんの話を基に沿岸地図を再現し、その日常風景を想像してみました。

夕方 沖で漁を終えた船が湾のほうに戻ってくる。
船を迎える威勢のいい声がヤップ橋の下の方から聞こえてくる。
「かつお、かつおの大漁だよ
」
湾沿いの家々から煙が立ち上り始める。
そろそろ夕飯どきか。
沖縄三味線の音が何処からか聞こえてくる
黄昏時のヤップ橋上、行きかう人で賑わい始める。
浴衣姿の子供を連れた人もいる。
今夜はヤップ橋の上空に花火が打ち上げられるという。
沿岸を微風がなでていく。
もう直ぐ9時。島民は午後9時以降は外出禁止。
「早く帰らないと巡査にどやされるぞ」と言う声が聞こえてくる
こんな一日があの当時チャモロ湾沿岸で展開されたのではなかろうか
【シャロームおじさんの呟き】
ミクロネシア地域の他の島々で伝統が次々と消えていく中、ヤップは自分達の伝統に誇りを持ち それを 伝えていこうとする姿の存在と同時に、アメリカの巨大な消費文化に圧倒され 混乱している姿も見られたのが1980年代のヤップでした。
あれから30年余り経った現在、日本統治時代のことを語れる人はもう少なくなり、アメリカ的教育で育った新しい世代がヤップの舵取りをしていることでしょう。どのような方向に舵を操っているのでしょうか?
自分達のIDENTITYと関わる伝統生活習慣を守り続けながらアメリカ文化を上手く取り入れ発展していることを願っやみません。
END
このブログを機に、ヤップの教育庁にアレックスおじいさんの消息を訪ねてみたのですが、残念ながら現在のところ分っていません
ある日チャモロ湾岸を散歩中、「博士様!」と呼ばれ、誰のことかとキョロキョロ見回していると、村の酋長さんでした。
「日本軍の破竹の進撃を聞いて、私の家でも赤飯を炊いて、皆で万歳を三唱して祝ったものですよ」と日本語で在りし日の懐かしい思い出のように語ってくれました。
あるときは白髪の元気なおばあさんが「確かに、日本時代は兵隊さんによく殴られましたよ。私達だけじゃなく日本人も。でも、今と違ってもっと全てにきちんきちんとしていましたよ」と流暢な日本語で話してくれました。
アレックスおじいさんも「今は、怠け者が増えてきたよ。昔はもっとよく働いていて、裏山の方では米も作っていたけどね」と言っていました。
こんな話を聞いていると 日本の統治時代を経験したヤップの人達の中には日本への郷愁を抱いている人がいまだにけっこういるのはまちがいありません。
1987年ミクロネシアの歴史を題材にしたミクロネシア連邦政府発行の4枚の切手があります。
(*手元に現在ないのが見せられないのが残念ですが、、)
その切手に描かれているのは
1.スぺイン時代: スペイン国旗とキリスト教宣教師
2.ドイツ時代: 当時のドイツ国旗と<COPRA>コプラ産業
3.日本時代: 日の丸と学校授業風景
4.アメリカ時代: 星条旗とSTORE
それぞれ統治時代の特徴を表しており、興味深いです。
ヤップ政府の役人の言うように ヤップはミクロネシアの他の島の二の舞は踏むまいとして、慎重に将来を模索している様子は確かに滞在中 感じましたが、、、
ミクロネシア一番と言われるアルコール消費量(そういえば村に行ってもビールの空き缶が散らばっているのをよく見ました)そしてこれまであまりなかった殺人、強姦等の犯罪が増えているが故に 日本の統治時代を経験した人達には「日本への郷愁」が一層つのるのかもしれません。
【チャモロ湾】
真ん中遠くの方に見える橋が当時ヤップ橋と呼ばれていた。
【統治時代のチャモロ湾岸集落】 赤星さんの話:日本統治時代 この湾岸に沿って日本人集落が賑わいを見せたと言う。赤星さんの話を基に沿岸地図を再現し、その日常風景を想像してみました。

夕方 沖で漁を終えた船が湾のほうに戻ってくる。
船を迎える威勢のいい声がヤップ橋の下の方から聞こえてくる。
「かつお、かつおの大漁だよ
」湾沿いの家々から煙が立ち上り始める。
そろそろ夕飯どきか。
沖縄三味線の音が何処からか聞こえてくる
黄昏時のヤップ橋上、行きかう人で賑わい始める。
浴衣姿の子供を連れた人もいる。
今夜はヤップ橋の上空に花火が打ち上げられるという。
沿岸を微風がなでていく。
もう直ぐ9時。島民は午後9時以降は外出禁止。
「早く帰らないと巡査にどやされるぞ」と言う声が聞こえてくる
こんな一日があの当時チャモロ湾沿岸で展開されたのではなかろうか
【シャロームおじさんの呟き】
ミクロネシア地域の他の島々で伝統が次々と消えていく中、ヤップは自分達の伝統に誇りを持ち それを 伝えていこうとする姿の存在と同時に、アメリカの巨大な消費文化に圧倒され 混乱している姿も見られたのが1980年代のヤップでした。
あれから30年余り経った現在、日本統治時代のことを語れる人はもう少なくなり、アメリカ的教育で育った新しい世代がヤップの舵取りをしていることでしょう。どのような方向に舵を操っているのでしょうか?
自分達のIDENTITYと関わる伝統生活習慣を守り続けながらアメリカ文化を上手く取り入れ発展していることを願っやみません。
END
このブログを機に、ヤップの教育庁にアレックスおじいさんの消息を訪ねてみたのですが、残念ながら現在のところ分っていません
NOSTALGIA
【郷愁】
【列強(日本)の進出】
零戦闘機の残骸

「青い月の下で、恋をささやき思い出なつかしや、バナナの香りああ懐かしい、あなた様 あなた様と私しかない あなたと私は内緒で死ぬまで暮らしましょう」
ウンチャチャウンチャチャで始まるこのウクレレ調の日本語の歌は、ドライブしている時にラジオから流れてきたものです。
一日おきに午後一時ごろから20分ほどであるが日本の音楽が放送されていました。比較的新しい曲もありましたが大半は演歌。「清水港は、
、、、、」とか「岸壁の母」まで耳にしました。
この日本の音楽の人気を不思議に思い ラジオ放送局に足を運んでみました。
「年配の人が、レコードを持ってきてかけてくれと頼まれます。日本の人から寄贈された物とかが在庫にあります。 まだまだ日本の音楽が足りないので、残念ながら毎日放送は出来ず、フィリピン音楽と一日交替で放送しています。日本の音楽、何でもいいですからいらないものがあれば送ってください」 とまで放送局の人に言われました。
こんなヤップの人達の日本への郷愁に出会うと、1914年から1945年までの日本の統治した約30年と言うのは、列強支配の爪跡をただ残しただけにすぎないのかなと素朴な疑問が湧いてきます。
<PEACE CORPS>米国平和部隊(発展途上国を援助する米国政府派遣の民間団体)隊員の著した
”WELCOME TO YAP”の中に日本統治時代の事は以下のように記述されています。
日本の植民地政策は国際連盟委任統治に基づき施行されたが、実際はそれとはかけ離れ、南洋諸島に対する日本の植民地政策は要約すると以下の4つの骨子から成立。
1.将来入島する日本国民のために南洋諸島の開発に当たる
2.島民への教練強化プロパガンダを通じての日本化する
3.文化変容の促進振興
4.太平洋地域征服の為、南洋諸島の要塞化
この政策遂行の手段として
1.占領地域にあった条件の基での南洋諸島の行政管理
2.重要な職は日本人だけに与えられる
3.日本並びに南洋諸島に駐屯する日本軍への資源開発
4.その目的遂行の為に島民に責任分担を負わせる
日本統治時代、離島<FAIS>フェの鉱山開発で、土地を枯渇させるほど採掘し、年寄りから小さい子供まで借り出し強制労働に従事させ、よくビンタを食らわし、彼らの大事な石貨まで破壊してしまったと記述されている。
日本の歴史糾弾要素の強いこういう箇所の記述だけを読んでいると、日本の統治時代は、何とひどいことをしたのかと、きっと今もヤップの人は排日感情を根強く持っているのに違いないと思っていたのですが、、、、、
強制的に学校に通わされたというアレックスおじいさんを始めとするヤップの人達から、当時の日本統治時代の話を聞いていると、どうも一方的な記述でFAIRに見えません。
ヨーロッパ列強の南洋進出の際はどうだったのか?
そこには島民の存在することなど無視し、勝手に統治権を主張、あるいは島を他国に売買したりする振舞いも同じように糾弾すべきではないかと反駁さえしたくなります。
「やまだ先生お元気ですか。先生にナラッタ生徒たちが、時々オモイ出しております。
お元気でしたら近況をお知らせください 」ジョン・マンゲフェルほか一同
上記の便りは<ヤップニュース>(1975年6月発行)の記事に載っていたのですが、ヤップの人との「草の根交流」がこのようにいまだ続いているのを知るとほっとします。
シャロームおじさんも滞在中に ヤップの人と日本人との暖かい交流に触れることが出来ました。
そのエピソードの一端を紹介します。
【注】統治時代の初期は軍政が施行されていたが1918年ごろから民政に移行し、ヤップにも日本人の移住が始まり農業、漁業に従事した。他の南洋の島と比べてその数は少なかったが、、、
【日本統治時代の写真】
農業訓練を受けた生徒達と日本人
徳島の赤星正計さんから提供された貴重な写真と人物名表記
この写真を頼りに赤星さんたちは 当時の生徒達の消息確認の旅にヤップ訪問
X印は既に亡くなった人
名前の上にチェック印
はヤップ訪問者(赤星、大内、阿部)
赤星さんは既に亡くなられました。そしてカタカナ名の下( )内のカタカナ表記は出身村名を示す
【尊敬に能うる先輩日本人】
前列左から赤星さん、歌の上手なルベルカン酋長さん、大内さん、後列左から赤星さんの奥さん、阿部さん、ホテル従業員 そしてシャロームおじさん
当時農業指導をしていた日本人の先生とその生徒(ヤップの人)との心温まる同窓会がヤップのホテル食堂でありました。40数年ぶりの出来事です
幸運にもシャロームおじさんもその仲間に入れて頂きました。
それは赤星さん夫妻、大内さん、阿部さんとのホテルでの偶然の出会いがきっかけでした。
日本人グループが泊まりにきているという噂を聞き、早速そのホテルへ出かけました。
パラオ、サイパンならまだ分かるのですが、どうして日本人がヤップまで来るんだろうか
と言う素朴な疑問。
当時教えていた頃の生徒の消息を確かめるためにはるばる日本からやって来たなんて思いもしませんでした。
「今日は、何とか、この三人の事を聞き出して見ましょう。もう死んでいるかも知れんな。あんまり(滞在)日がないのでとにかくできるだけやってみましょう」と言いながら食事もそこそこにピックアップトラックに乗ってホテルを出て行く4人の日本人を目撃。
夕方戻ってこられた時に少し話しかけ、「何か、私にでも、できることがあればおっしゃってください」と声をかけた程度なのに、帰国される前の晩に 「ホテルの食堂でお別れ会をしますので、森さんも是非お越しください」と招待を受けました。
知り合ってほんの数日にもかかわらず、ありがたいお誘いだっので遠慮なく参加させてもらいました
【さよなら同窓会】

このさよならパーティは奇しくも、(1988年)7月4日の米国独立記念日の日でした。遠く離れた村から駆けつけた人もいました。既に亡くなっている人もいました。
(*この日の同窓会が、文字通り最後になってしまった人がほとんどでしょう)
パーティの晩は、農業訓練を受けたホテルの主人が、自慢の腕を振るって、環礁付近で獲って来たばかりの魚をさばいて料理を出し、ほかのヤップの人達は心のこもった手料理をそれぞれ家から持ち寄りました。
米国スタイルの<POTLUCK PARTY>
「こんなものは、あの当時 食べてたかいな]等等いいながら、テーブルに盛られた精一杯のヤップもてなし料理を
紙皿によそいました。
バッドワイザーで乾杯の後、赤星さん(徳島出身)の日本語での挨拶。
「皆さんとこうして、四十数年ぶりに生きて会えるというのも、本当に幸せなことです、、、、、、
あの当時あった学校の場所で、再び、こうして森さんが日本語を教えておられるのも、何かの縁かもしれません、、、、、」と赤星さんの物静かな淡々としたスピーチが印象に残りました
宴が進むにつれて、皆ほろ酔い気分になって、昔話に花が咲き、歌も始まりました。(*カラオケはまだありませんでした)
次から次へと懐メロソングの登場。
シャロームおじさんも聞いたことのないような歌も出てきます。戦前はやった歌でしょうか
「終戦後、日本に渡り、横浜でしばらく沖中仕をしていた時によく日本の歌を覚えたもんですよ」とルベルカン酋長さんが、歌を披露。
最初ちょっとはにかんだ風に見えましたが、調子が出だすと、情感たっぷりに得意の喉を聞かせてくれました。
一番だけかと思いきや二番、三番の歌詞まで、今も全部覚えているのには、日本勢も口あんぐり。
統治時代という歴史の流れの中ではありましたが、こうして日本の先生達とヤップの人達との間に友情に満ちた師弟愛が育まれていたのを強く感じる一時でした。
この日はシャロームおじさんもほろ酔い気分、冒頭の「
青い月の下で、恋をささやき思い出なつかしや、バナナの香りああ懐かしい、あなた様 あなた様と私しかない あなたと私は内緒で死ぬまで暮らしましょう
」と言うウンチャチャメロディーの歌を口ずさみたくなるような気分になりました。大満足の一日でした 
【列強(日本)の進出】
零戦闘機の残骸

「青い月の下で、恋をささやき思い出なつかしや、バナナの香りああ懐かしい、あなた様 あなた様と私しかない あなたと私は内緒で死ぬまで暮らしましょう」
ウンチャチャウンチャチャで始まるこのウクレレ調の日本語の歌は、ドライブしている時にラジオから流れてきたものです。一日おきに午後一時ごろから20分ほどであるが日本の音楽が放送されていました。比較的新しい曲もありましたが大半は演歌。「清水港は、
、、、、」とか「岸壁の母」まで耳にしました。この日本の音楽の人気を不思議に思い ラジオ放送局に足を運んでみました。
「年配の人が、レコードを持ってきてかけてくれと頼まれます。日本の人から寄贈された物とかが在庫にあります。 まだまだ日本の音楽が足りないので、残念ながら毎日放送は出来ず、フィリピン音楽と一日交替で放送しています。日本の音楽、何でもいいですからいらないものがあれば送ってください」 とまで放送局の人に言われました。
こんなヤップの人達の日本への郷愁に出会うと、1914年から1945年までの日本の統治した約30年と言うのは、列強支配の爪跡をただ残しただけにすぎないのかなと素朴な疑問が湧いてきます。
<PEACE CORPS>米国平和部隊(発展途上国を援助する米国政府派遣の民間団体)隊員の著した
”WELCOME TO YAP”の中に日本統治時代の事は以下のように記述されています。
日本の植民地政策は国際連盟委任統治に基づき施行されたが、実際はそれとはかけ離れ、南洋諸島に対する日本の植民地政策は要約すると以下の4つの骨子から成立。
1.将来入島する日本国民のために南洋諸島の開発に当たる
2.島民への教練強化プロパガンダを通じての日本化する
3.文化変容の促進振興
4.太平洋地域征服の為、南洋諸島の要塞化
この政策遂行の手段として
1.占領地域にあった条件の基での南洋諸島の行政管理
2.重要な職は日本人だけに与えられる
3.日本並びに南洋諸島に駐屯する日本軍への資源開発
4.その目的遂行の為に島民に責任分担を負わせる
日本統治時代、離島<FAIS>フェの鉱山開発で、土地を枯渇させるほど採掘し、年寄りから小さい子供まで借り出し強制労働に従事させ、よくビンタを食らわし、彼らの大事な石貨まで破壊してしまったと記述されている。
日本の歴史糾弾要素の強いこういう箇所の記述だけを読んでいると、日本の統治時代は、何とひどいことをしたのかと、きっと今もヤップの人は排日感情を根強く持っているのに違いないと思っていたのですが、、、、、
強制的に学校に通わされたというアレックスおじいさんを始めとするヤップの人達から、当時の日本統治時代の話を聞いていると、どうも一方的な記述でFAIRに見えません。
ヨーロッパ列強の南洋進出の際はどうだったのか?
そこには島民の存在することなど無視し、勝手に統治権を主張、あるいは島を他国に売買したりする振舞いも同じように糾弾すべきではないかと反駁さえしたくなります。
「やまだ先生お元気ですか。先生にナラッタ生徒たちが、時々オモイ出しております。
お元気でしたら近況をお知らせください 」ジョン・マンゲフェルほか一同
上記の便りは<ヤップニュース>(1975年6月発行)の記事に載っていたのですが、ヤップの人との「草の根交流」がこのようにいまだ続いているのを知るとほっとします。
シャロームおじさんも滞在中に ヤップの人と日本人との暖かい交流に触れることが出来ました。
そのエピソードの一端を紹介します。
【注】統治時代の初期は軍政が施行されていたが1918年ごろから民政に移行し、ヤップにも日本人の移住が始まり農業、漁業に従事した。他の南洋の島と比べてその数は少なかったが、、、
【日本統治時代の写真】
農業訓練を受けた生徒達と日本人
徳島の赤星正計さんから提供された貴重な写真と人物名表記
この写真を頼りに赤星さんたちは 当時の生徒達の消息確認の旅にヤップ訪問
X印は既に亡くなった人
名前の上にチェック印
はヤップ訪問者(赤星、大内、阿部)赤星さんは既に亡くなられました。そしてカタカナ名の下( )内のカタカナ表記は出身村名を示す

【尊敬に能うる先輩日本人】
前列左から赤星さん、歌の上手なルベルカン酋長さん、大内さん、後列左から赤星さんの奥さん、阿部さん、ホテル従業員 そしてシャロームおじさん当時農業指導をしていた日本人の先生とその生徒(ヤップの人)との心温まる同窓会がヤップのホテル食堂でありました。40数年ぶりの出来事です
幸運にもシャロームおじさんもその仲間に入れて頂きました。それは赤星さん夫妻、大内さん、阿部さんとのホテルでの偶然の出会いがきっかけでした。
日本人グループが泊まりにきているという噂を聞き、早速そのホテルへ出かけました。
パラオ、サイパンならまだ分かるのですが、どうして日本人がヤップまで来るんだろうか
と言う素朴な疑問。当時教えていた頃の生徒の消息を確かめるためにはるばる日本からやって来たなんて思いもしませんでした。
「今日は、何とか、この三人の事を聞き出して見ましょう。もう死んでいるかも知れんな。あんまり(滞在)日がないのでとにかくできるだけやってみましょう」と言いながら食事もそこそこにピックアップトラックに乗ってホテルを出て行く4人の日本人を目撃。
夕方戻ってこられた時に少し話しかけ、「何か、私にでも、できることがあればおっしゃってください」と声をかけた程度なのに、帰国される前の晩に 「ホテルの食堂でお別れ会をしますので、森さんも是非お越しください」と招待を受けました。
知り合ってほんの数日にもかかわらず、ありがたいお誘いだっので遠慮なく参加させてもらいました
【さよなら同窓会】

このさよならパーティは奇しくも、(1988年)7月4日の米国独立記念日の日でした。遠く離れた村から駆けつけた人もいました。既に亡くなっている人もいました。
(*この日の同窓会が、文字通り最後になってしまった人がほとんどでしょう)
パーティの晩は、農業訓練を受けたホテルの主人が、自慢の腕を振るって、環礁付近で獲って来たばかりの魚をさばいて料理を出し、ほかのヤップの人達は心のこもった手料理をそれぞれ家から持ち寄りました。
米国スタイルの<POTLUCK PARTY>
「こんなものは、あの当時 食べてたかいな]等等いいながら、テーブルに盛られた精一杯のヤップもてなし料理を
紙皿によそいました。
バッドワイザーで乾杯の後、赤星さん(徳島出身)の日本語での挨拶。
「皆さんとこうして、四十数年ぶりに生きて会えるというのも、本当に幸せなことです、、、、、、
あの当時あった学校の場所で、再び、こうして森さんが日本語を教えておられるのも、何かの縁かもしれません、、、、、」と赤星さんの物静かな淡々としたスピーチが印象に残りました
宴が進むにつれて、皆ほろ酔い気分になって、昔話に花が咲き、歌も始まりました。(*カラオケはまだありませんでした)
次から次へと懐メロソングの登場。
シャロームおじさんも聞いたことのないような歌も出てきます。戦前はやった歌でしょうか

「終戦後、日本に渡り、横浜でしばらく沖中仕をしていた時によく日本の歌を覚えたもんですよ」とルベルカン酋長さんが、歌を披露。
最初ちょっとはにかんだ風に見えましたが、調子が出だすと、情感たっぷりに得意の喉を聞かせてくれました。
一番だけかと思いきや二番、三番の歌詞まで、今も全部覚えているのには、日本勢も口あんぐり。
統治時代という歴史の流れの中ではありましたが、こうして日本の先生達とヤップの人達との間に友情に満ちた師弟愛が育まれていたのを強く感じる一時でした。
この日はシャロームおじさんもほろ酔い気分、冒頭の「
青い月の下で、恋をささやき思い出なつかしや、バナナの香りああ懐かしい、あなた様 あなた様と私しかない あなたと私は内緒で死ぬまで暮らしましょう
」と言うウンチャチャメロディーの歌を口ずさみたくなるような気分になりました。大満足の一日でした 
キリスト教
【キリスト教の布教】
でこぼこ山道をドライブしていると忽然と瀟洒な建物が現れます。
それは 十字架に象徴される教会です。
【COLONIA<コロニア>地域の教会】
滞在中 キリスト教を熱心に広めようとする若者によく出会いました。
白人の若者とマイクロネシアの若者が一緒に連れ立ち、聖書片手に自転車あるいは歩いて布教活動するモルモン教徒。白いシャツにネクタイと言ういかにも清楚ないでたち。
昔、神戸でもよく見かけたことがあります。
繁華街の路上で、けなげに日本語で何かを書いて道行く人の注意を引いていました。
昔とあまり変わらぬ彼らの布教活動スタイルに感心。
「ものみの塔」と日本では呼ばれているJEHOVA WITNESS信者も、又EVANGELIST <エバンジェジェリスト福音伝道者 >の信者もヤップで布教活動。
さながら信者集めにしのぎを削っているかのような印象を受けました。
ある晩、アレックスおじいさんの庭先のたまり場で出会った若い白人の若者、 「神のお告げがあり、僕はこの地に伝道に来たのです。僕の一生は神に託してあります」と一点を見据えるような表情でシャロームおじさんに語りかけて来ました。
その時、正直 信心深い人の凄さに圧倒されたと同時に怖ささえ感じました。
そういえば、昔、イスラエルに住んでいたときに、夢の中に神の託宣”聖地を目指せ”を受け、仕事を投げうって、家族率いて聖地エルサレムへやってきた日本人も居ました。
結局、生活を始めて現実の厳しさに気付き、数ヶ月も経たずに一家そろって帰国してしまったことがあります。

ドライブ中に見つけた教会。
パラオの<STORY BOARD> のような絵が正面の壁に描かれている。
神に貢げ物を捧げる原住民の姿はヤップの人にはどうも見えません。
石貨も神への貢物として描かれてはいますが、、、、
【キリスト教徒の墓】 人目でわかる派手な飾りの十字架
【教会礼拝の日】
離島の人もちょっとお洒落して、色とりどりの<LAVA LAVA>腰みのをつけて礼拝参加
週末になるとコロニアにある教会は大繁盛。
白人の姿も中にはちらほら見えるが、ほとんどが現地の人達。
中には入りきれず、外で説教を聴いている人達もいる。
そのせいか、この教会では午前中二度に分けて、礼拝サービスを行います。
離島の人達もピックアップ・トラックに家族親戚を満載して、着飾ってやって来ます。
女性はきれいな<LAVA LAVA>を腰につけ、
この日ばかりはとブーゲンブリアの花を頭に翳し、香水の香りをさせる者も。
男性の中にはいつもと違うふんどし着用の者もいます。
その日の神父さんはどこかで見たことのある、、と思いきや、シャロームおじさんの日本語クラスを最初受けていた学生でした。と言っても年配のヤップの人でしたが。
説教はヤップ語で行われ、何を言っているかチンプンカンプンわからず。
それは、シャロームおじさんだけでなく、祈りに来た多くの離島の人も同じ。
以前に言ったように、離島の言葉はヤップ語とは言語的に相当かけ離れています。
説教の内容が分らず、ジーッと我慢して座っているのは退屈なはずだと思うのですが、どうもそんな風には見受けられませんでした。
アレックスおじいさんは「教会行っているのは 家で何もすることがないから、暇つぶしに教会へ行っているようなもんだよ」と言っていましたが、案外それが当たっているかもしれません。
ちなみにアレックスおじいさんの教会へ行く姿は滞在中一度も見かけませんでした。
礼拝サービスが終わるとピックアップ・トラックに乗ってみな三々五々散っていきます。
ちょっとその一団に週末のプランを聞いてみると、
他の村の友達や親戚を訪ねに行くとの事。
これがどうやら、ヤップの人達の平均的な週末の過ごし方のようです
【福音伝道教会】
< こじんまりしたこぎれいな別荘のような教会 >

【礼拝風景】中に入れなくてもこうして外で真剣に説教を聴き入る信者もいます。
【礼拝風景】
<COLONIA>コロニアに在る教会の日曜日礼拝はいつも満員御礼の大盛況 入り口前で座り込む人も多いです


【グアムのクリスチャンの建てた学校】

シャロームおじさんの感心したのは、年配リーダー引率の下クリスチャンの若者20人余が無料奉仕で、ヤップのために校舎建設に精を出していた事です。
夏休みを利用して来たグアムの若者達です。
<FUND RAISING> 資金集め活動で手に入れた食料を持参し、水にも困るような環境のなかでキャンプ生活しながら白人、黒人、チャモロ人の若者たちが一緒に労働従事。
セメント運びをしたり、流し込んだりの仕事は結構重労働。
若者達のキリスト教奉仕精神は見上げたもの。
一年後その場所を訪れた時には、学校は開校されていました。ハレルヤ

でこぼこ山道をドライブしていると忽然と瀟洒な建物が現れます。
それは 十字架に象徴される教会です。
【COLONIA<コロニア>地域の教会】
滞在中 キリスト教を熱心に広めようとする若者によく出会いました。
白人の若者とマイクロネシアの若者が一緒に連れ立ち、聖書片手に自転車あるいは歩いて布教活動するモルモン教徒。白いシャツにネクタイと言ういかにも清楚ないでたち。
昔、神戸でもよく見かけたことがあります。
繁華街の路上で、けなげに日本語で何かを書いて道行く人の注意を引いていました。
昔とあまり変わらぬ彼らの布教活動スタイルに感心。
「ものみの塔」と日本では呼ばれているJEHOVA WITNESS信者も、又EVANGELIST <エバンジェジェリスト福音伝道者 >の信者もヤップで布教活動。
さながら信者集めにしのぎを削っているかのような印象を受けました。
ある晩、アレックスおじいさんの庭先のたまり場で出会った若い白人の若者、 「神のお告げがあり、僕はこの地に伝道に来たのです。僕の一生は神に託してあります」と一点を見据えるような表情でシャロームおじさんに語りかけて来ました。
その時、正直 信心深い人の凄さに圧倒されたと同時に怖ささえ感じました。
そういえば、昔、イスラエルに住んでいたときに、夢の中に神の託宣”聖地を目指せ”を受け、仕事を投げうって、家族率いて聖地エルサレムへやってきた日本人も居ました。
結局、生活を始めて現実の厳しさに気付き、数ヶ月も経たずに一家そろって帰国してしまったことがあります。

ドライブ中に見つけた教会。パラオの<STORY BOARD> のような絵が正面の壁に描かれている。
神に貢げ物を捧げる原住民の姿はヤップの人にはどうも見えません。
石貨も神への貢物として描かれてはいますが、、、、
【キリスト教徒の墓】 人目でわかる派手な飾りの十字架
【教会礼拝の日】
離島の人もちょっとお洒落して、色とりどりの<LAVA LAVA>腰みのをつけて礼拝参加週末になるとコロニアにある教会は大繁盛。
白人の姿も中にはちらほら見えるが、ほとんどが現地の人達。
中には入りきれず、外で説教を聴いている人達もいる。
そのせいか、この教会では午前中二度に分けて、礼拝サービスを行います。
離島の人達もピックアップ・トラックに家族親戚を満載して、着飾ってやって来ます。
女性はきれいな<LAVA LAVA>を腰につけ、
この日ばかりはとブーゲンブリアの花を頭に翳し、香水の香りをさせる者も。
男性の中にはいつもと違うふんどし着用の者もいます。
その日の神父さんはどこかで見たことのある、、と思いきや、シャロームおじさんの日本語クラスを最初受けていた学生でした。と言っても年配のヤップの人でしたが。
説教はヤップ語で行われ、何を言っているかチンプンカンプンわからず。
それは、シャロームおじさんだけでなく、祈りに来た多くの離島の人も同じ。
以前に言ったように、離島の言葉はヤップ語とは言語的に相当かけ離れています。
説教の内容が分らず、ジーッと我慢して座っているのは退屈なはずだと思うのですが、どうもそんな風には見受けられませんでした。
アレックスおじいさんは「教会行っているのは 家で何もすることがないから、暇つぶしに教会へ行っているようなもんだよ」と言っていましたが、案外それが当たっているかもしれません。
ちなみにアレックスおじいさんの教会へ行く姿は滞在中一度も見かけませんでした。
礼拝サービスが終わるとピックアップ・トラックに乗ってみな三々五々散っていきます。
ちょっとその一団に週末のプランを聞いてみると、
他の村の友達や親戚を訪ねに行くとの事。
これがどうやら、ヤップの人達の平均的な週末の過ごし方のようです
【福音伝道教会】
< こじんまりしたこぎれいな別荘のような教会 >
【礼拝風景】中に入れなくてもこうして外で真剣に説教を聴き入る信者もいます。
【礼拝風景】<COLONIA>コロニアに在る教会の日曜日礼拝はいつも満員御礼の大盛況 入り口前で座り込む人も多いです


【グアムのクリスチャンの建てた学校】

シャロームおじさんの感心したのは、年配リーダー引率の下クリスチャンの若者20人余が無料奉仕で、ヤップのために校舎建設に精を出していた事です。
夏休みを利用して来たグアムの若者達です。
<FUND RAISING> 資金集め活動で手に入れた食料を持参し、水にも困るような環境のなかでキャンプ生活しながら白人、黒人、チャモロ人の若者たちが一緒に労働従事。
セメント運びをしたり、流し込んだりの仕事は結構重労働。
若者達のキリスト教奉仕精神は見上げたもの。
一年後その場所を訪れた時には、学校は開校されていました。ハレルヤ


ヤップ・ダンス
【伝統ダンス】
ヤップの魅力を語る時、先ず話題になるのは石貨ですが、ヤップの伝統ダンスもなかなかどうして。
一言触れて見たくなります。
新しく<MEETING HOUSE>集会所が建てられたり、あるいはコミュニティ・プロジェクトが行われるような時に、ダンスを踊り祝う習慣があります。
今ではハイスクールの卒業式の日にもダンスが行われます。若者達の門出を祝うのでしょう。
米国の祭日を家庭で祝う事はあまりしませんが、クリスマスには教会に行って祝うそうです。
シャロームおじさんので出合った踊りは、ハイスクール卒業祝いの日でした。
花や葉で飾られたあでやかな衣装を身につけ 身体にはココナツオイルを溶かし <TURMERIC>ターメリック(ウコンの根の粉末、黄色染料、調味料、興奮剤)を塗って大勢勢で歌いながら踊るダンス
【TURMERICを塗った女性】
<WELCOME TO YAPパンフレットの表紙写真より>
見物のシャロームおじさんは、歌の意味はチンプンカンプン分りませんでしたが、だんだん歌が盛り上がりにつれ、踊り手の高揚感はしっかり伝わってきました。
<TURMERIC>ターメリックの成分も興奮を引き起こすのに一役買っているのでしょうか?
この伝統行事には シャロームおじさんの今まで抱いていた暗いイメージとは違う、明るく生き生きとしたハイビスカスの南国イメージが見られました。
特に若い女性のダンスは そのあでやかな衣装と身体からかもし出される香りとがあいまって、非常に官能的でさえありました。
子供達の晴れ姿に粗相のないようにと準備にかいがいしく気を配る母親達の姿が印象的でした。
何か「通過儀礼」の行事としての大切さがこの行事にはこめられているような気がしました。
男子は男子だけ、女子は女子だけに分かれて踊るのがヤップでは当たり前で、男女が一緒になって踊ると言うのは昔はほとんどなかったと言います。
でも 竹を使った<BAMBOO DANCE>では男女一緒になって踊るようになっています。

【子供達のBAMBOO DANCE】
【迫力満点:若い女性のダンス】
【新スタイル:男女合同ダンス】
【STANDING DANCE】
歌いながら行進する踊りで、日本統治時代に生まれたとか。この踊りは女性だけで行われます。
女性の口の辺りにも注目
びんろうじゅを噛んでいる女性はいませんか
【SITTING DANCE 】女性だけの優雅なダンス、
<SITTING DANCE>そして<STANDING DANCE>は 男女別々に踊るという伝統を今も守っています
この写真もシャロームおじさんお気に入りの写真。右下にぞうりのあるのが気になりますが、、、、
ヤップの魅力を語る時、先ず話題になるのは石貨ですが、ヤップの伝統ダンスもなかなかどうして。
一言触れて見たくなります。
新しく<MEETING HOUSE>集会所が建てられたり、あるいはコミュニティ・プロジェクトが行われるような時に、ダンスを踊り祝う習慣があります。
今ではハイスクールの卒業式の日にもダンスが行われます。若者達の門出を祝うのでしょう。
米国の祭日を家庭で祝う事はあまりしませんが、クリスマスには教会に行って祝うそうです。
シャロームおじさんので出合った踊りは、ハイスクール卒業祝いの日でした。
花や葉で飾られたあでやかな衣装を身につけ 身体にはココナツオイルを溶かし <TURMERIC>ターメリック(ウコンの根の粉末、黄色染料、調味料、興奮剤)を塗って大勢勢で歌いながら踊るダンス

【TURMERICを塗った女性】
<WELCOME TO YAPパンフレットの表紙写真より>見物のシャロームおじさんは、歌の意味はチンプンカンプン分りませんでしたが、だんだん歌が盛り上がりにつれ、踊り手の高揚感はしっかり伝わってきました。
<TURMERIC>ターメリックの成分も興奮を引き起こすのに一役買っているのでしょうか?
この伝統行事には シャロームおじさんの今まで抱いていた暗いイメージとは違う、明るく生き生きとしたハイビスカスの南国イメージが見られました。
特に若い女性のダンスは そのあでやかな衣装と身体からかもし出される香りとがあいまって、非常に官能的でさえありました。
子供達の晴れ姿に粗相のないようにと準備にかいがいしく気を配る母親達の姿が印象的でした。
何か「通過儀礼」の行事としての大切さがこの行事にはこめられているような気がしました。
男子は男子だけ、女子は女子だけに分かれて踊るのがヤップでは当たり前で、男女が一緒になって踊ると言うのは昔はほとんどなかったと言います。
でも 竹を使った<BAMBOO DANCE>では男女一緒になって踊るようになっています。

【子供達のBAMBOO DANCE】
【迫力満点:若い女性のダンス】
【新スタイル:男女合同ダンス】
【STANDING DANCE】
歌いながら行進する踊りで、日本統治時代に生まれたとか。この踊りは女性だけで行われます。 女性の口の辺りにも注目
びんろうじゅを噛んでいる女性はいませんか
【SITTING DANCE 】女性だけの優雅なダンス、<SITTING DANCE>そして<STANDING DANCE>は 男女別々に踊るという伝統を今も守っています
この写真もシャロームおじさんお気に入りの写真。右下にぞうりのあるのが気になりますが、、、、
Stone Money
【STONE MONEY<石貨>】
以前ミルゥオーキーと言えば
「ミュンヘン、サッポロ、ミルゥオーキー」
のコマーシャルから”ビール”を連想すると言いましたが ヤップと言えば 連想するのは"石貨"
それは他の太平洋の島々では存在しないユニークな物
【我が愛車ナンバープレートにも石貨】

<日本統治時代の飛行場跡にて撮影>
現にヤップの車のナンバープレートには<ISLAND OF STONE MONEY>と言う文字と共に石貨が描かれています。 やはり石貨のことは無視できません。
【情念のこもる石貨】
<何を語リかけているのか
>

今でも村の入り口へ続く小道の脇、あるいは家の前に 大小さまざまな形をした石貨がたてかけてある。
真ん中辺りに穴が開いたドーナツのような丸い形。
中には二つ穴の開いている珍しいのもある。
穴のあいた平べったい丸い石が並んでいるだけですが 無視できず、
立ち止まってゆっくり眺めたくなってしまいます。
”人間の情念のほとばしり”と言うとちょっとオーバーになるかもしれませんが、、、、、
しかし、 事実石貨一つ一つには、ヤップの歴史が刻まれていると言っても過言ではありません。
伝説によると、大昔アナグマンと言う航海士が、パラオで輝く<LIME STONE>石灰石の洞窟を発見し、
それをヤップへ持ち帰ったのが 石貨の始まりまりだと言う。
航海士アグナマンは魚の形に石灰石を彫らせたが、気に入らず、三日月形に変えさせたが、結局、最後は満月の形にしたとか。
そして運びやすいように真ん中に穴を開けヤップに持ち帰った。
いつごろ最初の石貨がヤップに持ち込まれたかは定かではないが、1500〜2000年前であろうと伝えられている。
パラオからヤップまでちっぽけなカヌーで250マイル(約400キロ)の距離と言うのは、その当時では危険な大航海
いくら天候に恵まれても、その頃の小さなカヌーでは1週間はかかった。
文字通り命がけの石貨運びであった。
航海途中で石貨と共に太平洋の藻屑となり命を落とした幾多の男達。
その亡くなった航海者へ敬意を表し、石貨にはその勇者の名前がよく付けられる。
ヤップに無事運ばれた石貨には、命まで捧げた勇敢な男達の魂がこめられ、その石貨にまつわる歴史は後世に語り継がれていく。
19世紀後半になるとヨーロッパ人が交易を求め 大きな汽船でヤップにもやってきた。
<COPRA> コプラ(ココナツの肉を乾燥したもの、やし油の原料)貿易を通じて 石貨はパラオから汽船で持ち運び出されるようになり、 「石貨へのロマン」は失われていってしまう。
命賭けてカヌーで運んだ石貨の2倍以上の大きな石貨が容易に汽船で運べる時代の到来。
しかし、大きな石貨ほど価値があるというのでは決してなく、小さくてもその石貨にどんなストーリーが刻まれているかと言うことのほうがより価値が高かった。
ヤップでも200年程前には石貨は作られたが、価値と言う点では余り省みられなかったと言う。
<LIME STONE>石灰石はヤップでは産出しなかった。
20世紀の幕開けと共に、石貨運びも次第にすたれていった。
日本統治時代の調査によると、1929年には13,281の石貨の存在が確認されたが その後は、調査した者がおらず明らかではないが おそらくその半分はヤップに現存していると言うことである。
第二次大戦中に この石貨を日本は錨、道路建設に使い あるいは問題を引き起こす島民への見せしめの為に破壊したとヤップ観光局の”WELCOME TO YAP”冊子には記載されている。
現在はもちろん貨幣として流通しているわけではないが、めでたいたい時や村の祭りなどで交換品として使われる。
石貨の年代そしてその石貨の持つ伝承ストーリによって交換される物も品代わり。
それは豚であったり、土地であったりする。
このように石貨は今も象徴的な大事な物としてヤップ社会で使われている。
過去にヤップからたくさん石貨が米国、ドイツや日本にも流出し、危機感からか 石貨の持ち出しには知事や酋長さん等の書類許可なしには勝手に出来ないよう最近はなっている。
行く行くは、交換価値の役割も失せ、ヤップの伝統文化遺産として石貨は美術館に納められる運命になるのでしょうか
【二つ穴の珍しい石貨】
運びやすいように真ん中辺りに穴を開けたのは分るが、何故二つも穴を開けたのだろうか?

【MONEY BANKS<石貨銀行>】
村へ続く道に展示された石貨の数々


マリア像のそばにあったかなり大きな石貨
一番大きな石貨は直径12フィート(約3.6メートル)ほどあると言う。
>
【MONEY BANKS】 何かを語りかけるような石貨

【集会場の脇にあった価値ある?石貨】
以前ミルゥオーキーと言えば
「ミュンヘン、サッポロ、ミルゥオーキー」
のコマーシャルから”ビール”を連想すると言いましたが ヤップと言えば 連想するのは"石貨"
それは他の太平洋の島々では存在しないユニークな物
【我が愛車ナンバープレートにも石貨】

<日本統治時代の飛行場跡にて撮影>
現にヤップの車のナンバープレートには<ISLAND OF STONE MONEY>と言う文字と共に石貨が描かれています。 やはり石貨のことは無視できません。
【情念のこもる石貨】
<何を語リかけているのか
>
今でも村の入り口へ続く小道の脇、あるいは家の前に 大小さまざまな形をした石貨がたてかけてある。
真ん中辺りに穴が開いたドーナツのような丸い形。
中には二つ穴の開いている珍しいのもある。
穴のあいた平べったい丸い石が並んでいるだけですが 無視できず、
立ち止まってゆっくり眺めたくなってしまいます。
”人間の情念のほとばしり”と言うとちょっとオーバーになるかもしれませんが、、、、、
しかし、 事実石貨一つ一つには、ヤップの歴史が刻まれていると言っても過言ではありません。
伝説によると、大昔アナグマンと言う航海士が、パラオで輝く<LIME STONE>石灰石の洞窟を発見し、
それをヤップへ持ち帰ったのが 石貨の始まりまりだと言う。
航海士アグナマンは魚の形に石灰石を彫らせたが、気に入らず、三日月形に変えさせたが、結局、最後は満月の形にしたとか。
そして運びやすいように真ん中に穴を開けヤップに持ち帰った。
いつごろ最初の石貨がヤップに持ち込まれたかは定かではないが、1500〜2000年前であろうと伝えられている。
パラオからヤップまでちっぽけなカヌーで250マイル(約400キロ)の距離と言うのは、その当時では危険な大航海

いくら天候に恵まれても、その頃の小さなカヌーでは1週間はかかった。
文字通り命がけの石貨運びであった。
航海途中で石貨と共に太平洋の藻屑となり命を落とした幾多の男達。
その亡くなった航海者へ敬意を表し、石貨にはその勇者の名前がよく付けられる。
ヤップに無事運ばれた石貨には、命まで捧げた勇敢な男達の魂がこめられ、その石貨にまつわる歴史は後世に語り継がれていく。
19世紀後半になるとヨーロッパ人が交易を求め 大きな汽船でヤップにもやってきた。
<COPRA> コプラ(ココナツの肉を乾燥したもの、やし油の原料)貿易を通じて 石貨はパラオから汽船で持ち運び出されるようになり、 「石貨へのロマン」は失われていってしまう。
命賭けてカヌーで運んだ石貨の2倍以上の大きな石貨が容易に汽船で運べる時代の到来。
しかし、大きな石貨ほど価値があるというのでは決してなく、小さくてもその石貨にどんなストーリーが刻まれているかと言うことのほうがより価値が高かった。
ヤップでも200年程前には石貨は作られたが、価値と言う点では余り省みられなかったと言う。
<LIME STONE>石灰石はヤップでは産出しなかった。
20世紀の幕開けと共に、石貨運びも次第にすたれていった。
日本統治時代の調査によると、1929年には13,281の石貨の存在が確認されたが その後は、調査した者がおらず明らかではないが おそらくその半分はヤップに現存していると言うことである。
第二次大戦中に この石貨を日本は錨、道路建設に使い あるいは問題を引き起こす島民への見せしめの為に破壊したとヤップ観光局の”WELCOME TO YAP”冊子には記載されている。
現在はもちろん貨幣として流通しているわけではないが、めでたいたい時や村の祭りなどで交換品として使われる。
石貨の年代そしてその石貨の持つ伝承ストーリによって交換される物も品代わり。
それは豚であったり、土地であったりする。
このように石貨は今も象徴的な大事な物としてヤップ社会で使われている。
過去にヤップからたくさん石貨が米国、ドイツや日本にも流出し、危機感からか 石貨の持ち出しには知事や酋長さん等の書類許可なしには勝手に出来ないよう最近はなっている。
行く行くは、交換価値の役割も失せ、ヤップの伝統文化遺産として石貨は美術館に納められる運命になるのでしょうか
【二つ穴の珍しい石貨】
運びやすいように真ん中辺りに穴を開けたのは分るが、何故二つも穴を開けたのだろうか?

【MONEY BANKS<石貨銀行>】
村へ続く道に展示された石貨の数々


マリア像のそばにあったかなり大きな石貨一番大きな石貨は直径12フィート(約3.6メートル)ほどあると言う。
>
【MONEY BANKS】 何かを語りかけるような石貨

【集会場の脇にあった価値ある?石貨】







